あの後、化学の授業もなく先生に会わなくて済んだ。
あんな事があったから、どんな顔をしたら良いかわからなかったし。
そして、すぐに春休みになった。
すぐに忘れる事は出来ないけど、先生の顔を見ない春休みの間は辛くなる事もなかった。
ユカ達と毎日のように遊んだのも良かったのかもしれない。
ずいぶん、気が紛れた。
そして、また新しい春がやって来た。私は去年と同じように裏庭に居た。
桜は去年と同じ、綺麗なピンク色をしていた。ここだけは変わらない。
それが私にはとても嬉しいことだった。やっぱりここに来ると心が落ち着く。
『頑張るぞぉ~!!』
誰もいないのを良い事に大声で叫んだ。もう、きっと、大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、教室に向かった。
新しいクラス、新しい私。そして、新しい恋。胸を弾ませて、私は座っていた。
そう、あの日までは。
始業式の次の日からは通常通りの授業が開始された。
去年のようにドアに集中することはない。
2年生ということもあって、どの先生も簡単な挨拶だけで授業はすぐに始まった。
こうして、平穏な毎日が始まるのだろうと思っていた。
しかし数日後、そんな平穏な日々は打ち崩された。
ドアを開けて入ってきたのは、朝倉先生だった。
2年になっても化学は朝倉先生らしい。
考えてみれば、去年と同じ教科はみな同じ先生だった。
化学も朝倉先生が担当しても不思議ではない。先生がチラリとこちらを見たような気がした。
私にはそんな事を嬉しがっている余裕はなかった。
自分の気持ちを落ち着けようとするだけで精一杯だった。
でも、先生の顔を見たら、私はまた1年前に戻ってしまっていた。
そんな私のことはお構いなしのようで、先生は事務的に出席を取り始めた。
私の名前も『佐々木さん』と苗字で呼んだ。
このクラスには“佐々木”は一人しかいない。
名前で呼ぶ理由がないのだ。
授業は去年のように、みんなの笑い声の中進んでいった。
私はどうしても笑うことが出来なかったけど。
授業の最後に先生が言った。
『2年生の授業では教材も増えてくる。
そこで、授業の準備を手伝ってくれる人が必要になってくるんだが・・・
佐々木さん、やってくれるかな?』
クラスの目が一斉に私の方に向けられた。
私はビックリして聞き返した。
『なんで・・・私・・・なんですか?』
先生は平然と答えた。
『去年の成績上位者に頼もうと思って。
化学に関心があるから、成績も良かったんだろ?
私の手伝いをしてくれれば、もっと化学のことをわかるだろう?』
『でも、私じゃなくても・・・』
私がモジモジして、返事を渋っていると、
『他に私の事を手伝ってくれるものはいるかな?』
と、先生はみんなに向かって聞いた。
しかし、誰一人手を挙げるものはなかった。
誰も、授業の手伝いなんてしたくはないだろう。
先生はそのことをわかっていて、わざとみんなにも聞いたのだ。
クラスのみんなは、私にやってくれと言わんばかりに、私の方を見ている。
私は仕方なく『はい・・・わかりました。』と言った。
その瞬間、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
授業を手伝う係りも私に決まり、みんなホっとした様子で教科書やノートを片付け始めた。
先生は私の言葉を聞いてニヤリとしていた。
そして、
『じゃ、佐々木さん、さっそく今日の放課後、理科準備室に来て。』
と、言い残し教室を後にした。私は、暗い気持ちになっていた。
これから、何度も先生に会わなければならない。
しかも、今日の放課後会わなければない。
先生は、なんで私を指名したのだろうか。
1年生の終わりにあんなことがあった私に。
それに、私の気持ちも知っているはずなのに。
女の子にはよくある、ちょっとした恋心だとでも思っているのだろうか。
きっと、先生の事だ。私と同じような生徒はたくさん居たに違いない。
だから、私が『好き』と言ったときも、軽く受け流したのだろう。
私の気持ちはそんな軽いものじゃなかった。今、そう気づいたのに。
放課後、どんな顔をして理科準備室に行けば良いのだろう。
そんな事を延々と考えている間に、放課後は来てしまった。
コン コン
『はい。どうぞ。』
『失礼します。2年A組の佐々木です。』
『あぁ、来てくれてありがとう。悪かったね、勝手に決めて。』
そう言いながら、先生は笑顔で私を迎えてくれた。
先生の変わらない態度に、私は少し戸惑った。
しかし、これは係りの仕事なのだからと自分に言い聞かせて、しっかりやろうと決めた。
『いえ・・・あの、何を手伝えばイイんですか?』
努めて自然に振舞った。先生は、紙の山を私の前に差し出した。
『悪いんだけど、これを、冊子にしたいんだ。
一緒にホッチキスで留めてくれないかな。』
『わかりました。』
と、私は言い、早速、紙の山の前に座った。
先生が貸してくれたホッチキスを使い、黙々と紙を留めていった。
先生は、他に仕事があったらしく、しばらくは少し離れた机で何かを書いていた。
あの時と同じ。紙にペンを滑らす音が響いている。
あの時と違うのは、その音の間に、私が鳴らすホッチキスの音が入ることだった。
私は早く作業を終わらせようと、集中して冊子を作っていた。
しばらくすると、先生が私の隣に座った。私は、ビックリして手を止め、先生の方を見た。
先生も、私の方を見ていた。
『どうした?疲れたか?』
『あ、いえ、大丈夫です。』
と、答えると
『そうか。』
と言い、私と一緒に冊子を作り始めた。
私は、先生が隣でドキドキしていたが、ドキドキが先生に伝わってはいけないと思い、
慌てて私も冊子作りを再開した。私は何を話してイイかわからず、ずっと黙ったままだった。
先生も喋らなかったので、教室にはホッチキスのカチッカチッという音だけがしていた。
長い沈黙が続いた。
40分くらいして、ようやく紙の山がなくなった。私は、ふーっと長い息を吐き、手を上にあげて伸びを
した。あぁ、これでやっと帰れる。少し寂しいが、二人っきりの空間から逃れられるのは嬉しい。
すると、先生がコーヒーを入れたカップを持ってきてくれた。
『急に頼んで悪かったね。どうしても明日の授業で使いたかったんだけどさ。
他の仕事もあって間に合いそうもなかったからさ。思ったより早く終わったな。
若菜が手伝ってくれてよかったよ。』
危うく、コーヒーのカップを落としそうになった。
さっきまで先生は“佐々木さん”と呼んでいたのに、急に“若菜”と呼んだからだ。
動揺しているのが、思いっきりバレバレの顔をしていたと思う。
先生は、ドギマギしている私の気持ちも手に取るようにわかっているだろう。
先生の顔は、何もかもお見通しって顔してる。私は悔しかった。
先生は私の気持ちをわかっていて、わざとこんな事をしているのに、
それなのに私は先生の事が大好きだ。
それでも、先生は平然として
『コーヒー、嫌いか?なら、紅茶にするか?』
と言ってきた。
私は、また逃げても仕方がないと思って、とにかく落ち着いて話をしようと思った。
『あ、コーヒー、大丈夫です。ありがとうございます。』
さっきと同じように沈黙が始まった。今度はコーヒーをすする音だけが教室に響く。
私は何を話してイイかわからなくて、ただコーヒーに映って揺れる自分の顔を見つめていた。
顔を上げれば先生の顔がある。今はまだ直視できない先生の顔が。
その時、先生が言った。
『オレ、もう少し仕事があるんだ。隣で仕事しているから。
コーヒー飲み終わったら勝手に帰っていいよ。
カップはそこに置いておいていいからさ。じゃ、今日はありがとな、若菜。』
わざとらしく、私の名前を最後に言って、隣の部屋に入っていった。
そして、鍵をかける音がした。私は、先生が入っていった部屋のドアに向かって、『イーーーー』っと
してやった。少しだけ気分が晴れた。
そして、そんな事をした自分が少し可笑しかった。
私はニヤつきながら、冷めてしまったコーヒーをすすった。
さっきまで下を向いていたせいか、外が薄暗くなっているのに気づかなかった。
壁の時計を見たら、5時を回っていた。
私も長居をしている場合じゃないと思い、残ったコーヒーを一気に流し込んだ。
さて、先生は勝手に帰っていいと言っていたけど、やっぱりカップを片付けた方がイイよね。
先生に声もかけた方がイイよね。
とりあえず、私は理科準備室の流しでカップを洗い、持っていたタオルでキレイに拭いた。
あとは、隣の部屋にいる先生に声をかけるだけ・・・
隣の部屋とココを繋いでいるドアの前に立った。
でも、ノックする勇気がない。もう一度、先生の顔を見る勇気が出なかった。
結局、先生の『勝手に帰っていい』という言葉に甘え、
「ごちそうさまでした」と書いたメモ用紙とコーヒーカップを、
ドアの近くの机に置いて帰ってきてしまった。
続く
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