それから、数週間。朝倉先生は、私に手伝いを頼んでこなかった。
授業の準備といっても、忙しくなければ先生一人でやれるだろうし、
他の子を頼むことも出来るだろう。私のクラスに授業に来ても、
特に私の方を見る事もなく、その他の生徒と同じように接してきた。
もちろん“佐々木さん”と呼んでいた。
先生に“佐々木さん”と呼ばれるたびに、胸がチクっとした。
ずっと私の中にある恋心は、先生に距離を取られる度に悲しく泣き声をあげているようだった。
ある日、化学の授業の終わりに先生が言った。
『佐々木さん、今日、ちょっと授業の準備を手伝ってくれないかな。』
私は、断る理由もなく準備を手伝うことを了承した。
理科準備室に行くと、先生が待っていた。
『おぅ。来てくれてありがとう。今日は、そこにあるプリントに穴を開けて、
ファイルに閉じていって欲しいんだ。』
先生が指さした机には、プリントがごちゃごちゃに置かれていた。
私は少し呆れて、その紙の山を見ていた。そんな私に気づいた先生が
『授業で使う資料を片っ端からコピーしてたら、収集がつかなくなってさ・・・
最近、会議も多くなって片付ける暇がなかったんだよ。』
と、言い訳のような事を言ってきた。私は可笑しくなって、
思わずふきだしてしまった。私に笑われて恥ずかしかったのか、
耳まで赤くした先生は、後ろを向いて
『とにかく、ファイルしておいてくれよ。』
と言って、隣の部屋に入っていってしまった。
私は先生の事が可愛らしく思えて、余計に好きになってしまった。
しかし、そうそう浸っている訳にもいかない。仕事に取り掛かろう。
まずは、プリントを揃える所から始めなければ。
一人で黙々とやっていたせいか、すいぶん多く見えたプリントもあっという間に片付いた。
私はこういう仕事が向いているらしい。
最後のプリントをファイルに仕舞おうとした時、先生が現れた。
『お!もう終わったの?さすが、佐々木さん。
仕事が早いね~。頼んで正解だったよ。』
と、満足そうにファイルを眺めていた。
私は先生が“佐々木さん”と言ったのを聞き逃さなかった。
さっきまでの楽しい気持ちが一気に萎んでいくのがわかった。
そんな私に気づいているのか、いないのかわからないが、先生は続けた。
『そうだ、佐々木さん。こないだはカップ洗ってくれてありがとう。
今日もコーヒー飲んでいきなよ。』
“佐々木さん”と呼ばれる度に、胸が苦しくなる。
なんで、この前は“若菜”って呼んでくれたのに・・・自然と涙が溢れてきた。
私は、泣いている事に気づかれないように、すぐに帰ろうとした。
『あの・・・今日は、もう帰ります・・・』
『ちょっと、待ちなよ。』
先生に腕をつかまれ、椅子に座らされた。
『まだ、明るいし、少しだけ休んでいきな。
大変だっただろう?』
『でも・・・大丈夫ですから・・・』
私は、涙目になっているのを見られたくなくって、下を向いたまま答えた。
先生は、少し間を空けてから私に聞いてきた。
『どうして、泣いているの?』
先生に泣いている事がバレてしまっている。そう思ったら、
なおさら先生の方は見れない。私は何も言えず、黙ったまま下を向いていた。
すると先生が
『オレが“佐々木さん”って呼んだから?』
と言ってきた。
まさか、言い当てられるなんて思ってもいなかったので、
ビックリして顔を上げてしまった。先生はニヤニヤしながら、
私を見ていた。私の目はウサギのように真っ赤になっていたと思う。
先生に見透かされていたかと思うと、恥ずかしさのあまり、
私はどうしていいかわからなかった。私の心臓がドキドキと大きな音を立てた。
先生に聞こえるんじゃないかって思うくらい大きな音だった。
顔は熱くなっていくし、手は震えだしていた。
そして、何も言えず、ただ先生を見つめていた。
そんな私を見て、先生は声を出して笑い始めた。
笑っている先生を見たら、だんだん腹が立ってきた。
『なんで、笑うんですか!!私は本当に悲しくて・・・』
とうとう、涙がぽろぽろとこぼれだした。もう、止めることは出来ない。
私は涙をぬぐうことも出来ずに立ちすくんでいた。
先生は笑うのをやめて、真顔になった。真剣な眼差しに、思わずドキっとする。
『笑って、悪かった。』
さっきまで笑っていた先生が急に神妙な顔つきになって謝ってきた。
怒りでいっぱいだった私は、先生がいきなり謝ってきたので肩透かしをくらった気分だった。
これ以上、文句も言えない。私もすーっと怒りが引いていった。
『い、いや。あの・・・私もすいませんでした。』
あまりに素直に謝られて、つい私も謝ってしまった。
『あれ?なんで、謝るの?』
『え!?あー・・・だって・・・』
私は、なんで謝ったのか聞かれて混乱した。
ドキマギしている私に先生は続けた。
『なんでさ?笑ったオレが悪いんでしょ?』
先生はニヤニヤしている。私は、何がなんだかわからなくなってきた。
そして、
『あの、先生のこと好きで、ごめんなさい!!』
と訳のわからないことを言ってしまった。
先生は少しビックリしていたようで、しばらく何も言わなかった。
でも、また笑い出した。今度はお腹を抱えて、机をバンバン叩きながら。
先生は笑いすぎて涙をこぼしながら、
『お前、いきなり、何言ってんの?オレ、そんなこと怒ってないよ?』
と言った。
私も我に返って、急に恥ずかしくなった。
『あ、えっと。えっと。その・・・』
しどろもどろになりながら、何かを言おうと必死に考えている私に、先生は
『あーーーおかしい。こんなに笑ったの久しぶりだよ。
お前、見てるとホント飽きないなぁ。』
と、言いながら頭をポンポンと軽く叩いてきた。
そして、大笑いして出た涙を拭きながら
『別に、オレのこと好きでもかまわないよ。』
と、言った。
私は、何を言われたのかさっぱりわからなかった。
『それは、一体、どういう意味でしょう??』
『だからさ、別にオレのこと好きだなぁって思っていてイイよって事。』
先生はまるで迷惑そうにしていなかった。
普通、いや、漫画なんかでは先生が生徒に告白されると困っている場面に多く出くわす。
私が先生の事を好きでも、先生は困らないのだろうか。
『でも、先生は一重の子は好みじゃないんですよね?』
また、とんちんかんな事を聞いている。でも、私の頭はまだ混乱中なのだ。
自分でもなんでそんな事を聞いているのかわからないけど、勝手に言葉が出てきてしまうのだ。
『そうだよ~。オレ、二重のぱっちりお目目が好みなの。でもさぁ・・・』
そう言って、先生は私の耳元でささやいた。あの低い、ゾクゾクする声で。
『若菜のリアクション、最高だからさ。もっと近くで見ていたいんだよね。』
そして、私から離れた。もちろん、ニヤニヤしながら。
私は全身を真っ赤にして、座ったまま動けなかった。
動いたら、どうにかなってしまうんじゃないかと思って動けなかった。
今の言葉はどういう意味なんだろう。そのままの意味だと、私は近くにいてイイって事なんだよね?
それって・・・?どういう事?
『あ、あの。先生?よく意味がわからなかったんですけど・・・』
『ん?意味?そのままだよ。』
『あの・・・だから、そのままって・・・?』
『あぁ。若菜はお子ちゃまだからな。きちんと言ってやらないとわかんないのか。』
先生は一呼吸おくと、
『つまり、オレの彼女になれってこと。』
椅子に背もたれがついていて本当に良かった。
じゃなかったら、後ろにひっくり返っているところだった。
それほどの衝撃が私を襲っていた。
私が先生の彼女・・・?一重の私が・・・?
あまりに現実離れしている先生の言葉に、私はしばらく何も考えられなかった。
放心している私を、先生はずっと見ていた。その顔は、とても優しくて、
とても真面目で、今までみた先生のどの顔よりも穏やかだった。
今言った言葉は本当なんだと思うのに、時間はかからなかった。
あぁ、先生と私が恋人同士だなんて、夢なんじゃないかしら。
私は、夢見心地で、先生の言った『オレの彼女になれ』
という言葉を頭の中で繰り返していた。フワフワと温かな雲の上を歩いているような幸福感。
いつまでもこの幸せに浸っていたい。もしかしたら、夢かもしれない。
だったら一生覚めたくない。そんな気持ちで、ずっと座ったまま動かなかった。
そんな、幸せをぶち壊すかのように、先生の冷たい一言が準備室に響いた。
『やっぱ、一重だと腫れぼったいな。』
その言葉にがっくりと肩を落とす私に、笑いをかみ殺しながら近づいてきた。
そして、
『でも、目をつぶれば、一重だって二重だって変わらないよなぁ』
と、言いながら、キスをしてきた。
その後の記憶は・・・ない。
先生と出会ったときと同じ。私は、気づいたら家に帰っていて、
気づいたら自分の部屋にいた。あの日、どうやって帰ってきたのか。
いや、キスの後、先生とどんな話をしたのかも、
私がどんな風な顔をしていたのかも思い出せない。
ヒドイ顔じゃなかったと祈りたい。
あの日の事は、恥ずかしくて先生には聞けない。
きっと、先生のことだから、私が恥ずかしくて恥ずかしくて死にたくなるような言い方で
教えてくれるのだろう。そんなのは、勘弁して欲しい。だから、未だに聞けずにいる。
こうして、私は先生と付き合うことになった。
もちろん、先生と生徒なんだから内緒で。あぁ、ユカにだけは話したけど。
ユカにはずっと相談に乗ってもらっていたから。
先生は、私にだけ意地悪を言うみたいで、先生との事をユカに話すと必ず
『えぇー!信じられない!朝倉先生って、すっごく優しくてお兄さんみたいなのにぃ!』と言われる。
確かに、授業中や廊下で誰かと話しているのを見ると、
とてもじゃないけど、あんな風に意地悪を言うようには見えない。
だから、今でも女子のファンは多い。
ま、私は先生の意地悪に耐えられるのは、私くらいなもんだと思っているけど。
続く
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