付き合うことになってからは、授業の準備の手伝いが楽しくなった。
毎日だって手伝いたいと思う。だって、先生と二人きりになれるんだもの。
でも、先生はそんな私の気持ちを知っていて、ほとんど手伝いを頼まない。
寂しさのあまり、打ちひしがれている頃合を見計らって、手伝いを頼んでくるのだ。
二人きりの時は、先生は私の事を“若菜”と呼んでくれる。
秘密で付き合っている感じがしてドキドキする。
そして、それが妙に楽しい。
私も先生の事を特別に名前とかで呼びたいと思って、
勇気を出して『まさとくん』と呼んでみたことがある。
その瞬間、今まで優しかった先生の目が氷のような冷たい目に変わった。
私は、先生の事が『怖い!』と思い、思わず目をつぶってしまった。
すると、先生は耳元で、いつもよりもっと低い声で
『「まさとさん」だろ?』
と言ってきた。その声はとても冷たくて怖かった。
だけど、私はなぜか心をわしづかみにされたような気がして、
体中が熱くなってしまった。そして、
『は・・・い・・・。まさと・・・さん。』
と、声を絞り出すのがやっとだった。
私の返答に満足したのか、先生はいつもの笑顔に戻って
『よろしい。』
と言って、頭を撫でてくれた。そして、こう付け加えた。
『いいか?オレはお前より年上で、先生と言う立場だ。
オレはお前より絶対的に上なんだぞ。呼び方もそうだが、
常にオレの3歩後ろをついてくるような気持ちで付き合うように。』
いつの時代の人なんだか・・・と呆れる程だったが、
そんな所が可愛いと思えてしまう。いや、可愛いなんて口が裂けても言えない。
きっと、また注意されるだろう。それも楽しいが、
本当に怒らせてしまったら先生に振られてしまう・・・と思う。
それだけは避けたい。
あの時の凍りつくような目と声。頭を撫でてくれた暖かい手。
どちらも本当の先生だ。そのどちらの先生も愛しいと思う私がいた。
あぁ、私は恋をしているんだと思った。
先生の凍りつくような目を思い出したら、一気に現実に引き戻された。
どうやら、私は眠っていたらしい。口の端にヨダレが流れているのに気づいた。
急いで拭いて、鏡で入念に顔をチェックする。顔に洋服の跡はついていないようだ。
ぐちゃぐちゃになった髪を手で直す。
数ヶ月ぶりに先生に会うんだから、先生には今までで一番可愛い私を見てもらいたい。
可愛すぎて、先生が思わず抱きしめちゃうくらいの私を。
ま、先生はどんな事したって、私を褒めてくれる事はないだろうけど。
そんな事を自分で考えてたら、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
付き合い始めの頃に比べたら、私も積極的になった気がした。
大人の先生と一緒に居たから私も少しは大人に近づいたのかもしれない。
外はいつの間にか薄暗くなっていた。電気のついていない理科準備室は、
少し不気味に思えた。私は、ドアの近くにある電気のスイッチを押そうと席を立った。
まだ2月だ。日が落ちると一気に寒くなる。
ストーブもついていない部屋はしんしんとしていた。
持ってきていたカーディガンを羽織り、もう一度椅子に座った。
ケータイを出してみる。5時30分だった。
もうそろそろ先生も戻ってくるだろう。
あ、足音が聞こえてきた。ここは、職員室から少し離れていて、
こっちに来るのは先生しかいない。途端に、心臓の鼓動が早くなった。
いつも、あの足音を聞くと緊張する。
そわそわ、落ち着きがなくなってくるのが自分でもわかる。
同時に、嬉しさがこみ上げてくる。顔が自然と緩む。
早く会いたいよ。
もう一度、あの時のように呼んでみようかな。
『まさとくん』って。
久しぶりに冷たいく低い声が聞きたくなった。
了
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